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47.信濃橋の画家たち
信濃橋交差点西北門に建つ碑石
 近代都市化と呼応したモダニズム絵画の旗手

 大阪の西洋絵画は明治二十二年(1889)に東京から大阪朝日新聞の絵画担当として赴任してきた山内愚僊に始まるが、大阪洋画壇の基礎を形成したのは、翌年、大阪師範学校の教諭として岡山から来た松原三五郎や、後年に山内の後任者となった赤松麟作であろう。
  その後、大正十二年(1923)に大阪市美術協会が発足し、翌十三年四月に、信濃橋西北角の日清生命ビル四階に信濃橋洋画研究所が開設される。二科会会員に推挙され、洋画壇に新風を送り込んでいた小出楢重を
中心に、黒田重太郎・国枝金三 ・鍋井克之の四人が船場のボンの根津清太郎をパトロンに設立したものであった。
国枝金三作品<街景T>
 楢重の作品《帽子をかぶった自画像》には、大阪が、近代都市への変貌を象徴するような雰囲気があり、それが刺激となって、同年秋から三年間、「信濃橋洋画研究所作品展」に人気が集まる。
 研究所では、当時、裸婦モデルを使用したり、広く素人画家にも門戸を開放して洋画の普及に貢献するところが大であった。『作品展』は発展して昭和二年(1927)三月から『全関西洋画展』となり、「汎く全国の優秀なる作家を紹介して中央画壇と相対するだけの権威あるものとならしめたい」と宣言できる程になり、田村孝之助などを中央画壇に送り出した。
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