橋の史跡めぐり




1.戎 橋

2.太左衛門橋

3.相合橋

4.日本橋

5.下大和橋

6.上大和橋

7.瓦屋橋

8.九之助橋

9.末吉橋

10.安堂寺橋

11.久宝寺橋

12.農人橋



13.本町橋

14.大手橋

15.平野橋

16.高麗橋

17.今 橋

18.葭屋橋

19.天満橋

20.天神橋

21.難波橋

22.栴檀木橋

23.淀屋橋


1/戎橋 えびすばし
戎橋「浪華の賑ひ」

橋は道頓堀川の開削とほぼ同時に架けられたといわれている。橋筋は今宮戎神社への 参道にあたり、早くから橋が架けられたが、市内墓地の整理や芝居・遊廓設置の許可を経て千日 墓地への墓参や遊興地への連絡路として多くの人に利用されるようになった。
 橋名の由来は今宮戎との関連もあるが、「摂津名所図会大成」には古くこの地で毎年正月に 西宮戎神社の神像を立てて人々の信仰を促したことによるとする説もあわせて記述してある。 また橋の南詰めに操り芝居があったことで操り橋と呼ばれたこともある。
 江戸時代、町橋として橋掛り町の拡大による紛糾や割り付け率の合理的な変遷により橋周辺の 町によって維持管理されてきた。
多大な手間と費用で維持されてきた木橋も 明治11年、鉄橋に架け換えられ、その規模は橋長約 39.8m、幅員約7.8mあった。現在の橋は大正14年第一次都市計画の橋梁耐震化事業で鉄筋 コンクリートのアーチで川をひと跨ぎする橋となり、昭和54年に橋面を舗装し橋体をリフレッシュ する工事が行われた。  

2/太左衛門橋 たざえもんばし

 橋名は橋の南詰東角で歌舞伎の小屋を開いていた興行師大坂太左衛門に由来する。寛永3年(1626)に道頓堀の南側に芝居と遊廓が公許され、その数年後にはこの界隈は、芝居櫓が立ち並ぶ繁華街になった。 若衆歌舞伎の太左衛門は京都より進出してきた。
 橋の架設は明確でないが、明暦期(1655〜58)の町絵図に画かれ、芝居小屋への通路として早くから架けられて いたらしい。また、町橋で橋筋の芝居小屋にも大きい負担があったと思われる。
 橋の通りは南へ行くと千日墓地に通じ、橋の南詰西側にあった石段(岸岐・がんぎ)へは千日への葬送の船が着けられ、 ここから墓地に向かった。岸岐のたもとに石の地蔵尊がまつられていたという。
 道頓堀と宗右衛門町を結ぶ華やかな雰囲気の橋で、交通路として需要が低く昭和に入っても木橋のままで あった。第二次世界大戦で焼失し昭和23年に地元の人々によって木造橋が復活した。
 昭和33年に大阪市の手で永久橋が架けられ、昔を偲び高欄部には現代の橋では珍しく、擬宝珠の飾りが 付けられている。  

3/相合橋  あいあうばし

 橋は道頓堀川に架かる橋に比べてやや遅く架設され、「摂陽群談」(元禄14年1701刊)によると 1680年代になって初めて架けられたものらしい。
 近松門左衛門の「心中重井筒」の一節にもこの橋が登場し、新中橋または中橋と呼ばれていた。 橋の北詰にある茶屋の重井筒の遊女お房が紺屋の入婿徳兵衛と高津の大仏殿勧進所で心中する話 は近松と義太夫によって宝永4年(1707)に初めて上演された。
 橋の南側は芝居櫓が建ち並ぶ芝居町で歌舞伎を初め浄瑠璃やからくりなども盛んで、北側はお茶街 、遊所があった。これらの町を結ぶ艶なる橋で後に「相合橋」と名付けられたという。
 明治14年の記録では橋長41.1m、幅員5.8mとあり、江戸時代前期に比べ幅はかなり広くなり、 大正9年に架けられた橋も同規模であった。木橋の橋は第二次世界大戦で焼失し、しばらく架設され なかったが、地元の要望で昭和25年木橋で復元された。昭和37年に永久橋化され、同58年憩いの広場 を整備した。

4/日本橋 にほんばし

「浪花のながめ」
 橋は紀州街道が道頓堀川を渡る所に架けられ、江戸時代には公儀橋にも指定された重要な橋梁 であった。紀州街道は、秀吉の紀州遠征や紀州藩、岸和田藩の参勤交代により整備された。
 道頓堀川は豊臣時代から開削整備が始められ、豊臣氏が滅んだ元和元年(1615)に完成したといわれる。開削者は、安井道頓、道卜、 平野藤次らとされ、大坂へ入城した松平忠明が道頓の功績を賛えて道頓堀と名付けたといわれる。
 当時、橋筋は長町と呼ばれ、道の両側には旅籠が軒を並べ陸上の旅の起点ばかりでなく、舟旅の 出発点でもあった。また、橋周辺の浜には多くの物資が陸上げされ、幕末の頃魚の市で賑わった。
 明治10年頃になって紀州街道(国道26号線)が重要な路線であることから鉄橋化された。明治34年に 架け換えられた後、市電三期線の事業として堺筋が拡張され電車を通す鋼橋となった。
 昭和44年、地下鉄建設に伴い架け換えられ、橋詰には旧橋の姿を残そうという地元の声で 旧橋の声で旧橋の親柱が保存されている。  

5/下大和橋 しもやまとばし

 道頓堀川は、高津宮の境内を流れていた梅の川の下流部を基にして開削されたと考えられる。 梅の川は、地形からみて鞍部となっており上町大地の水を集め、かなり急流であったとされる。
 開削後間もなく、現在の位置に橋が架けられたと想像される。明暦3年(1657)の地図には 中橋とあり、正徳5年(1715)初演の近松門左衛門「生玉心中」の中には大和橋と表現されている。
 橋名は、北詰浜沿いの大和町に由来し、町の堀止め付近は、金毘羅詣の発着場で参詣客相手 の宿が多くたいへん賑わった。
 当時の堀川は、20間(40m)余の幅があり、橋の長さも20間以上で町橋であったため橋筋 の町々の負担が大きかった。
 明治30年になって橋は架け換えられたが、木橋のままでここまで近代化が及ばなかった。 明治36年堀止めに巡航船の乗船場ができた。同年大阪で開かれた内国勧業博覧会を機に道頓堀川 、西横堀川を巡り通勤と観光を兼ねた交通機関としてスタートし付近は賑わった。昭和3年に単純 鋼板桁を用いた近代橋が完成した。

6/上大和橋 かみやまとばし

東横堀川は上大和橋の下流で終わりになり、川は、直角に西へ曲がって道頓堀川になって いる。道頓堀川開削以前は、ここまでしかなかったので、この場所は、堀止めとか堀詰め と呼ばれていた。元和元年(1615)に道頓堀あg開削された後は、この地は物質の集散地 として荷車などが集まるところとなった。
 堀止め付近に橋が架けられた年代は明確ではないが、東横堀川西岸道路の延長上に 上大和橋が架けられたと考えられる。この頃は橋を架ける必要性が少なく九之助橋より下流 には橋が見当たらない。現在のように上・下大和橋の位置が定まったのは、元禄後期の頃と 考えられる。
 明治以降も長らく木橋のままで明治30年頃に架け換えられたが、依然木橋のままで あった。近代橋になったのは第一次都市計画事業の中の橋梁改築事業で、大正14年に橋長 35.8m幅員9.1mの三径間の単純鋼桁橋として完成した。戦後、阪神高速道路のランプが 造られ橋も少し改造された。  

7/瓦屋橋 かわらやばし

 橋の東詰め一帯は、江戸時代には南瓦屋町と呼ばれ、瓦の窯や土取場があって瓦生産が 行われていた。この地には、幕府の御用瓦邸寺島藤右衛門の請地があった。寺島氏は、豊臣氏 の御用瓦職人であったが、大坂の陣で徳川氏に内通したため屋敷を焼き打ちにされた。後に 徳川幕府からその内通の功績によって瓦の土取場として上町台地西辺の地、約4万6千坪を 借り請けたといわれる。
 この橋は、元禄時代の中期以降に初めて架けられたものと考えられ、橋の東詰めには瓦 を積み出す施設も設けられており、付近は、積み出しの船で賑わっていた。また、橋の西詰南側 には紀海音の「お染久松新版歌祭文」のモデルになった油屋があった。
 明治に入っても木橋のままであったが、昭和7年に橋長37.7m、幅員6.5mの簡易的な構造 の鋼桁橋になった。第一次都市計画事業で一つ北の周防町通が整備され東堀橋ができたため橋の 近代化が遅れた。昭和41年に架け換えが行われ橋の強度が高められた。昭和44年に歩道部が拡幅され 現在に至っている。

8/九之助橋 くのすけばし

長堀川は、元和8年(1622)頃、今日の産業道路のような役割をになっており 、沿岸には回船問屋や木材商が軒を並べ、その周辺には加工業が発達していた。
 東横堀川に近い南岸(鰻谷1丁目)には、住友家の銅吹所があり、寛永13年 (1636)の頃には銅の精錬が始められた。従って鰻谷や九之助町付近は銅吹所・鋳物屋 ・鍛冶屋などが多かった。
 九之助橋は、この九之助町と瓦屋町を結ぶ橋で、明暦の頃にはすでに架けられていた。 一風変わった名前は何らかの関係者の人名に思えるが、その由来は不明である。
 江戸時代の橋は、橋長39.4m、幅員3.9mあった。
 都市計画事業によって、大正15年に鋼アーチ橋に架け換えられた。橋長32.9mで 幅員10.9mの規模をもち、中央は支間長19.9mの鋼製アーチとなり両端には鉄筋コンクリート のアーチ構造が配されている。このアーチの採用は船の通行が多かったこともあるが、美観上 の配慮によるものと思われる。  

9/末吉橋 すえよしばし

 この橋は、南蛮貿易で有名な末吉孫左衛門が通行人の便をはかって架けたものだといい 伝えられている。
 末吉家は、平野郷七名家の一つで、伝承によると九世紀初め征夷大将軍坂上田村麿の 次男広野麿が摂津の住吉郡杭全庄に領地をもらって住んだのが始まりだといわれる。当家は様々 な商業活動を行い慶長9年(1604)江戸幕府より海外貿易の朱印状を得て、中国から東南アジア へと船を出して活躍した。
 当時の当主末吉孫左衛門の別邸が橋の西詰めにあり、最初は孫左衛門橋と呼ばれたという。また 、孫左衛門は元和8年(1622)に完成した長堀川の開削事業にも一役買っていたという説もある。
 明治になっても木橋であったが、市電第三期線の事業で玉造まで延長され明治44年にプレート ガーダー橋の鉄橋に架け換えられた。昭和2年に第一次都市計画事業で、鉄筋コンクリートのアーチ橋 (橋長41.5m、幅員27.3m)になった。昭和46年、長堀川が埋め立てられ約34mに拡幅されて今日に 至っている。

10/安堂寺橋 あんどうじばし

橋の名は、伝説的な寺の名前から由来し安曇寺から転訛したものといわれている。安曇寺は、 「日本書紀」に記述されている安曇寺のことであるといわれ、古代海人族の阿曇氏の拠点が 上町台地側にあったとも推定されている。また、聖武天皇が遊覧したとされる安曇江は 東横堀の前身となる入江であったともいわれる。
 江戸時代の橋通りは、玉造から生駒の暗峠に達する奈良街道に通じる重要な道筋に当り、この時代初期には架設されていた。
 橋の東側は東堀の材木浜で、材木をはじめ竹や竹皮の取引も行われていた。西側は船場の中心 につながり、装身具の小間物問屋が多くの周辺にはそれらを製造する手工業者も多かった。
 明治中期になると鉄柱で支えられた木桁橋となり、大正3年に四径間の鋼板桁に架け換えられたが、 幅員6.1m従来のものと殆ど同じあった。戦後昭和42年に幅員6mで三径間の鋼板橋に架け換えられ、交通量の増加に伴い49年に 両側へ1.5mずつの歩道が拡張されて現在に至っている。    

11/久宝寺橋 きゅうほうじばし

 橋名は、同名の寺が船場の側にあったといい伝えられている。しかし、その位置は定かではなく、 「浪華百事談話」にも そのことが記されている。久宝寺の由来には他説があって、道頓堀川が開削されたとき、河内の久宝寺 から多くの人夫が来て、この地に集落ができたためともいわれている。
 橋通りは、明暦3年(1657)の地図によれば大和街道の一つとされ、重要な道筋で豊臣時代から 架けられていたらしい。
 新町や道頓堀の遊所に近いため紙子、文具、合羽、白粉などを扱う職人や商人が混在していた。 また、人家の密集地でもあり、しばしば大火に見舞われている。
 江戸時代から橋の構造に変化がなかったが、明治中期になって五径間の木橋であったのが 約6mと幅が拡げられた。古くから重要な街道筋にあたっていたが都市計画道路の整備から 取り残された。昭和14年に永久橋化され橋長41.5m、幅員12.6mとなり三径間のゲルバー式の 鉄筋コンクリート桁が適用された。

12/農人橋 のうにんばし

 江戸時代には公儀橋に指定された重要な橋で「摂津名所図会大成」には 「この橋は古より農民が田畠へ往き通うための橋で土橋と同じような形式 であったが、寛永・正保の頃(1640頃)までは船場には田畠や芦原などが多くあって 、町家は上町に多かった。寛永年間、大坂の町家は地子銀が免除になったため、田畠 ・芦原の地にも町家が建てられ、急速に繁栄していく。これに伴って橋も高欄擬宝珠 をもった立派な橋になった。」とある。
 橋通りの上町側は、豊臣時代にすでに町割がなされ武家屋敷や町家が建てられ、 元和6年(1620)に始まった徳川氏による大坂城再建工事にほ橋詰に専用の荷揚げ場 が設けられたといわれる。
 明治初期は木橋のままで、半ばにやっと鉄柱を持つ橋となる。(橋長50.9m  幅員5.8m)対象15年に橋梁改築事業で鉄筋コンクリートのアーチ橋として橋長 が約40mと短くなり完成した。現在の橋は中央大通の阪神高速道路を挟んで、 幅員18mずつの合成桁が二橋架けられ橋長はさらに短く30m強となった。  

13/本町橋 ほんまちばし

 橋の創架は豊臣時代、東横堀が開削された天正13年(1585)からあまり遅くない時期に 架設されたと考えられる。
 この橋は戦略上重要な橋で大坂の陣において、争奪戦の場になった。冬の陣では 橋の西詰めに陣をとった蜂須賀隊へ城方塙団右衛門から激しい夜討ちがしかけられ奮戦となるなど 和戦両用のかけ引きが、盛んに行われた。翌年、夏の陣で落城することになる。
 江戸時代に大坂城の三の丸が開放され、橋の東側も商業地に変わり、内本町には油問屋が多く 本町筋には木綿太物の問屋が集まった。橋の北東詰めには石畳が敷かれた荷揚場があり賑わった。
 また西町奉行所が設けられ、行政の中心地ともなった。
 明治に入って奉行所跡は大坂鎮台となりさらに大阪裁判所と改められ後に大阪府庁となった。 橋には明治14年までに鉄柱を持った木橋に架け換えられ当時鉄橋が人々の話題を集めた。 大正2年、市電第三期線事業で今日見る意匠に配慮した橋に架け換えられた。その後、大規模な 補修が行われ、昭和57年に完成した。

14/大手橋 おおてばし

 古くは思案橋と呼ばれ、「摂津名所図会大成」には左へ行くか右へ行くか思案するため、 思案橋になったとある。別説には、豊臣秀吉が五奉行の一人、増田長盛にこの橋の名前を付ける ように命じたが、思案しなかなか決まらなかったことによるとある。
 この橋筋が豊臣時代も大手筋であったかどうか判らないが、西側の通りが直進していないのは、城の大手筋に 直接通ずる道を作らなかったという軍事上の配慮もあったのではないかという伝説もある。
 橋は豊臣時代に架けられたという確証がないが、、江戸時代初めには確実に架けられた。 大手通という町名が生まれたのは明治5年3月以降のことで、大手橋となったのは大正時代である。
 この橋が永久橋化されたのは大正15年で第一次都市計画事業の中の橋梁改築事業である。 これが現在の橋で三径間の鉄筋コンクリートのアーチ橋で、橋長49.5m幅員9.4mある。
 東横堀川に架かる橋は鋼鉄と鉄筋コンクリート製がほぼ交互に並び、そのデザインも異なり 独特の景観を造り出している。  

15/平野橋 ひらのばし

 江戸時代の橋の通りは大変賑やかであった。東に神明神社、西には御霊神社があり 、その門前の踊り場や定期的に開かれる夜店は大坂の名物の一つであった。また、町内 には北組の惣会所も設けられ、町政の中心地でもあった。
 平野町の由来は御霊神社の祭神、早良親王が京都の平野神社に祀られていたことから 、この界隈が平野と呼ばれるようになったと考証されている。
 江戸時代の平野橋に関する逸話は少ないが、町筋の繁栄とともに人通りの多い橋であったと思われる。 橋の規模は明治になっても変化なく木橋(橋長61.7m 幅員4.5m)であった。
 明治末以後、鉄橋に架け換えられたが、本格的な近代橋となったのは第一次都市計画事業に よってである。(昭和10年完成)形式は三径間連続の鋼板桁をセルフアンカーされたバランスドアーチ で補剛、アーチ部材が非常に小さい。これはスマートな印象を与え世界でも初めてと称された 形式の橋である。

16/高麗橋 こうらいばし

「摂津名所図会」
 橋は慶長9年(1604)にはすでに立派な擬宝珠をもつ橋として架けられていた。 東横堀は城の外濠に当り、城下町でもある船場地区との連絡は不可欠で、大坂城が完成 する天正14年頃にはすでに慶長9年の橋の前身が架けられていたと考えられる。
 橋名は古代、朝鮮からの使節を迎える迎賓館の名前に由来するものと、 秀吉が東横堀を開削し木橋を架設した当時、この橋を中心に高麗との貿易が旺盛で これに依り名付けたとの説がある。
 橋筋は元禄時代には呉服屋、糸屋などが軒を並べ人通りが多く橋の西詰めに 幕府の高札が立てられた。また、公儀橋12橋の中で重要視され西日本の街道の起点で運送費も ここから決められていた。
 明治3年には活版の創案者本木晶造の設計により、イギリス製で大阪最初の鉄橋が架設された 。この橋は「鉄橋」とか「くろがね橋」とかの愛称で呼ばれ、見物人が絶えなかった。昭和4年に 現在の鉄筋コンクリートのアーチ橋に架け換えられ、伝統の名橋にふさわしく高欄の柱には 青銅製の擬宝珠や角櫓が付けられた。  

17/今橋 いまばし

 橋は、大坂の陣を表した絵図などに名前が登場することから豊臣時代にすでに 架けられていたと推定される。「摂津名所図会大成」に「浪花の古図には今橋は見えない。 元和・寛永の頃までは当時の今橋通の南側だけに町家があり、北は広い浜岸になっていたが (略)北の通りも町家となった。従って北浜何丁目と名付けられた。東に橋がないと不便で あることになり京橋町からの道筋に橋をかけた。新しい橋であるため今ばしと呼んだ。」とある。
 江戸時代の今橋通は大両替商が軒を並べ、北浜には寛永3年(1743)に金相場会所が 設けられ、さらに延享元年(1744)には長崎貿易の品を初め北前俵物を扱った俵物会所が 設けられている。
 明治初期の橋は木杭で構成された橋脚を10基程度もつもので船の出入れが多かったにもかかわらず 支間長は平均7〜8mで短かった。同14年に木桁で鉄杭のものに架け換えられたが江戸期とほぼ同規模 だった。現在の橋は大正13年に架け換えられ、ゲルバー式鋼板桁で照明灯や鋳物製の立派なものが付けられた。

18/葭屋橋 よしやばし

「浪花百景」
 橋は東横堀川の北端、大川からの分流点に架けられ、俗に築地とも呼ばれた 蟹島遊廓への通路として設けられた。この遊廓は天明4年(1784)葭屋庄七らによって 開発されたものである。
 北浜あたりは古くから、各種の問屋が立ち並び、船の荷積み荷おろしで大変 賑わっていた。この東端は山の鼻と呼ばれていたがここに石垣を築き新しい土地を造成した。 蟹島の地は大川の眺望が非常によく、料理屋・旅館などが建てられ発展していく。
 架橋地点は通船が多い上、水流が複雑で橋脚へ衝突する事故が多く文化元年(1804)に 架け換えの時、防府・岩国の綿帯橋にみならって川の中に橋脚を設けない橋を架け 人々に珍しがられた。
 明治初期になって架けられた橋は珍しい斜張橋の原理を用いたもので、 橋の中央部両側に高い柱を建てその上から太いロープで桁を支えたものであった。 明治44年市電敷設工事(第三期線北浜線)によって単純鋼板桁の橋が架設され、中央に 市電の軌道が設けられた。昭和41年に非合成の鋼板桁の橋に架け換えられた。  

19/天満橋 てんまばし

 橋は浪華の三大橋の一つで、豊臣時代になって大坂城下建設に伴って大川に架けられたと されている。当時、大川は淀川と大和川の水を集めしばしば洪水を引き起こし橋の維持が 難しかった。
 江戸時代に入り大坂の街が急速に発展すると公儀橋に指定され幕府の直轄管理となり、 市街地を南北に結ぶ重要な橋となった。
 この橋は谷町筋より一つ東側に架けられ、享保9年(1724)の大火で焼けるまで橋の南側 に東西の町奉行所があった。
 谷町筋の東側にはさまざまな役所があり、橋の北側は営繕関係の役所・倉庫、町与力の屋敷 、町奉行同心などの官舎が建ち並び、これらの役人の通勤経路や役所間の連絡路と考えられている。
 天明6年(1786)から明治18年までに6回洪水による被害を受け同年、鉄橋に架け換えられた。 現在の橋は第一次都市計画により昭和10年に重厚な鋼桁橋となり橋長151m、幅員22mの市電の通る 大阪で最大のものとなった。昭和30年、高度の桁橋技術により天満橋の上に景観上の調和を保ち 高架橋ができた。

20/天神橋 てんじんばし

 橋の創架は「東区史」に「元亀元年(1570)織田信長は石山本願寺を攻撃し 、突如、天満宮の会所支配人と連歌所宗匠をかねていた大村由己が石山本願寺に 内通していたとの疑いから天満宮を焼失させ、所領を没収した。十数年後、 豊臣秀吉の大坂経営で由己は秀吉の寵愛を受け、文禄3年(1594)謡曲「吉野詣」 を作り恩賞を受けると共に所領の復帰が許された。社家は由己の功績に報いようと したが、由己は大川に新しい橋をかけるよう要請し同年に完成した。当初は新橋 と呼ばれていたが、天満天神社が管理することから天神橋と呼ばれるようになった。
 この架設は上町台地と大坂北部を結ぶ重要な出来事だった。
 明治3年、掘川には輸入鉄橋が架設されたが、長大橋に及ばず木橋のままだった。 同18年大洪水で中之島一帯、市内ほぼ全域で床上浸水となり、鉄橋化の必要性が認識 され、長大スパンの橋が架けられた。第一次都市計画事業で低い軽快なアーチ橋が 昭和6年着工され同9年に竣工し、水都大阪の代表的な景観を形造った。    

21/難波橋 なにわばし

 大阪の古い呼称である難波の名を付けられた橋は現在も大阪を代表する橋の一つ である。天平17年(745)、僧行基が摂津に難波橋を架けたという説があるが、 創架は明らかでない。
 江戸時代の初め公儀橋となったが、その時期は寛永元年(1661)のことと いわれている。橋は、橋長226.3m、幅員6.9mあった。
 当時橋の界隈には諸藩の蔵屋敷が多く建ち並び、それを取り巻く問屋街は繁栄を極めていた また、橋の付近は絶好の行楽地で夏は夕涼みの場所となり花火や月見の舞台でもあった。橋の眺望は絶賛するもの があり、橋から有馬富士や橋十六橋が見えたという。
 明治9年には中之島の先端が延長され、橋は南北に分けられ、この部分が鉄橋になった と推定される。同年18年の淀川大洪水により南半分が流失し橋柱のみを鉄材にした橋に架け換え られた。大正4年、市電事業に伴う架橋により軽快な鋼製ニヒンジアーチや華麗な照明灯などは 水上公園の一部となった。また、親柱上のライオン像は大阪市の発展を願って付けられた。昭和 47年、鋼桁の架け換えが始まり同50年に完成した。

22/栴檀木橋 せんだんのきばし

 古い歴史をもつ橋で、北浜一帯は豪商の倉や屋敷が立ち並び、米市が開かれるなど 大阪経済の中心地となっていた。中之島には諸藩の蔵屋敷が建てられ、両岸の連絡用として 土佐堀川には江戸時代の初期から多くの橋が架けられこの橋もその一つであった。
 創架の年代は不明であるが、江戸時代の早い時期のようで町橋とされていることで 架設者は有力な商人であった可能性が高い。
 橋名の由来は「摂津名所図会」ではこの橋筋に栴檀ノ木の大木があったためとしている が、詳らかでない。
 江戸時代、橋の規模は土佐堀川で最大の規模(橋長95m、幅員3.9m)で近松門左衛門の 戯曲「女殺油地獄」に登場する。
 木橋であった橋は明治18年の大洪水で流失した。暫く再建されず大阪府立図書館の建設、 大阪市庁舎の建設計画で橋が必要となり大正3年に架け換えられたとされる。その後昭和10年 に第一次都市計画により軽快簡素な橋に架け換えられ同55年からの架け換え事業により景観と 調和した橋として同60年に完成した。  

23/淀屋橋 よどやばし

  橋は江戸時代初期に豪商淀屋が架けたと言い伝えられているがいつ、誰が架けたか はっきりしない。淀屋の初代常安は大坂の陣で材木商として徳川氏の信をえて特権商人の基礎 固め、二代目个庵(こあん)の時代には蔵元として諸藩の米を初めとする物産を扱い財を築いた 当時、中之島には多くの蔵屋敷が軒を並べ、この行き来のため淀屋が自費で橋を架けたといわれている。
 五代目三郎右衛門の時代に最盛期になるが、豪商の経済力が幕藩体制を揺るがすようになり 取り潰しがが行われていたといわれる。
 元禄10年(1697)に米市場が堂島に移っても正月四日に立てる初相場だけは必ず橋の南詰めで慣例的に 行われたようである。
 明治18年の大洪水により橋は流失し、このとき鉄製杭橋脚の橋となった。明治末年の市電敷設事業 同44年に橋は鉄橋化され、幅員8.8mが21.9mと2倍以上になり橋長57mとなった。大正10年橋梁意匠を 公募し南欧中世紀風の重厚な景観のある鉄筋コンクリートアーチ橋が完成した。

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