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2.土佐稲荷神社  
現在の社殿
土佐藩大阪蔵屋敷の鎮守神から地域住民の神社へ

 土佐稲荷神社を含む一帯は東側のマンモスアパートや区民センター・こども文化センターも含めて土佐藩山内家の大阪蔵屋敷であった。
土佐藩がこの地に蔵屋敷を置いたのは長堀川の完工とほぼ同時期(元和8年)で、他藩と異なり米穀だけでなく材木・鰹節・和紙・砂糖などの特産物を蔵物として大坂に運んで売りさばいていた。
 土佐藩は、この蔵屋敷の邸内に鎮守社として稲荷社を祀った。
地理的環境から夜桜が楽しめる
 十九世紀前半から、桜の樹が多く植えられるようになり、そのころから花の季節には庶民も花見に群を成して参詣に訪れることができるようになった。しかし、この時期の土佐稲荷は、他の蔵屋敷の邸内にある鎮守社同様に規模の小さなものであった。
 現在のように大規模な社となったのは明治維新期の廃藩置県に伴い、
この地が明治7年(1874)に土佐士族岩崎弥太郎にその所有が移ったことに端を発する。岩崎の事業となる三菱本社の創業とともに社殿を新築し、境内にあたる場所にこれまで以上に桜樹を植えたので、大阪でも有数の桜花の名所となり、多数の見物で賑わうところとなったためである。
三菱・岩崎家が建築した社殿

 境内の面積は1ヘクタールほどもあり、祭神には宇賀御魂神・速素盞鳴命大市姫大神・田中大神というふうに農業神を祀っている。稲荷社の性格から当然だが、むしろ蔵屋敷の商品の主体を占める米穀の豊作を願っている面が強い。
 土佐藩蔵屋敷のころには、鰹節・木材・和紙などの特産物を運んできたので、周辺の地域にはこれらの産物を扱う問屋街が成立した。
新なにわ筋と長堀通りが交差する地点を鰹座橋交差点というのは、周辺に鰹節を扱う問屋の集まっていたことを意味する。また、土佐から運んできた材木は、とくに「御材木」とよばれて市売りにかけられていて、長堀の一名物でもあった。和紙もこの周辺に荷揚げされたので和紙問屋も集まり、書籍の版元も和紙の供給を頼りにこの地で大成した。
大正期の土佐稲荷の全景

現在、教科書会社など数社の出版社が白髪橋周辺に存在するのもその名残である。
 戦災で社殿は全焼したが、南側を公園、東側を公共用地としたので、見違えるほど大きな雰囲気をかもし出す神社に復興し市内でも有数の夜桜の花見の名所となった。
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