大正区のなりたち

■区のなりたち
大正区は、江戸時代以前から続いてきた三軒家、難波島と江戸時代以後に木津川及び尻無川の河口に開発された新田と、さらに明治、大正、平成時代に造成された埋立地によって形成されています。このうち新田は、江戸時代に泉尾、炭屋、千島、今木、平尾、中口、上田が、南恩加島、北恩加島、小林、岡田、千歳が同末期に開発されました。 埋立地は船町、鶴町、福町、鶴浜の全部と南恩加島、平尾の一部の地域で、埋立が完了しましたのは大正末期で、ほぼ現在の大正区の区域が確定しました。
江戸時代は、摂津国西成郡に属し、幕府の直轄地として代官の支配下にありましたが、明治維新後、大阪府司農局に属し、明治2年摂津県(のち豊崎県と改称)・兵庫県を経て大阪府に属し、明治5年地域割りにより西成郡第二区に属しました。 明治30年に大阪市に編入され、西区の一部になりました。大正14年港区が西区から分区の際、港区の一部となっていましたが、昭和7年10月に、港区から分区独立しまして大正区が成立しました。 
 わがまち大正区


■区名の由来
当初の案は「新港区」でしたが、区民の総意を尊重して区名を募集した結果「三軒家区」と「大正橋区」が多数ありました。大正橋にちなんだ「大正橋区」が採用されましたが、ごろが長いということで最終的に「大正区」となりました。

■町名の由来
三軒家(旧三軒村)
 かつて木津川尻の小島であったこの地を、木津村の中村勘助が開発しました。その当時に、三軒の民家が建てられたからだといわれています。
泉尾(泉尾新田)
 この地は、和泉国大鳥郡踞尾村の北村六右衛門が開墾しました。開発者の北村右衛門の国名(和泉)と村名(踞尾)から一文字づつを採り命名したといわれています。
北村(泉尾新田)
 泉尾新田の開発者である北村六右衛門の苗字から命名したものといわれています。
小林(小林新田・岡田新田)
 東成郡千林村の岡島嘉平次が開墾しました小林新田と岡田新田から命名され、小林は千林村から、岡田は氏名の岡島から一文字づつ採った呼称であることに由来しています。「小林」を町名にしたのは、岡田新田が広い面積を有していましたが、小林新田にしか住民がいなかったためです。
平尾(平尾新田)
 大阪江戸堀の平尾与左衛門が開拓しました。与左衛門の姓をとって平尾新田と命名されたといわれています。
南恩加島(南恩加島新田)
 南恩加島新田は、2代・3代岡島嘉平次によって開墾され、恩加島新田と称しました。この名称は名前の岡島を恩加島と換用したものですが、開墾者の恩を忘れぬようにしたいという意味もあったようです。
北恩加島(北恩加島新田)
 恩加島新田を2分したときに、南恩加島と北恩加島に分けられました。
鶴町・船町・福町
 「鶴町」は万葉集巻六の田辺福麻呂がよんだ「潮干れば葦辺に騒く白鶴(あしたづ)の妻よぶ声は宮もとどろに」の鶴と、「船町」は同じく「あり通う難波の宮は海近み海女(あま)娘子(をとめ)らが乗れる船見ゆ」の船と、「福町」は詠者の福をとったものです。