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1.靭公園  
公園にできるテニス場完成予想図
ほしか商業集団地帯にできた飛行場そして公園

 靭(うつぼ)公園は、昭和三十年(1955)十月に開園された約十ヘクタールの大阪市内で有数の公園である。
 この靭公園の一帯は、古く元和八年(1622)に塩魚干鰯(ほしか)を扱う商人などによって初めて開発され、その商人が新靭など三町を成立させたところである。

バラ園と噴水に憩う市民
 靭の地名は当時この地に進出してきた商人たちの旧地(現中央区伏見町一丁目)において、魚を売る商人が市売りの呼び声を「やすーやすー」と叫んでいるのを、魚を入れたビクを見て巡見中の豊臣秀吉が、矢を盛って腰に背負う用具「靭」を「矢の巣」と称して売っているのだと信じ、それは「靭」というものだと教えた故事に基き、商人たちが町名として用いたことに始まる。伏見町の「靭町」は新靭町の成立後、本靭町となったことが古地図で読みとれる。
 江戸時代から昭和六年(1931)までの三一〇年間、この地には塩干魚・鰹節・昆布・ほしかの問屋が何百軒も軒をつらねていた。
往時の永代浜と楠(現楠永社)

 この問屋街の中央に、寛永元年(1624)から海部堀が通じ、永代浜と称する荷揚げ舟着場が「ほしか」専用の浜として設けられた。
ほしかとは、脂をしぼったあとのイワシやニシンなどを乾した農業用有機肥料のことで江戸時代の田んぼを活性化するのになくてはならぬものであった。
 なぜこのような物品を扱う問屋集団の地域が四十年ほど前に公園になったのであろうか。
飛行場当時の靭。建物旧靭小学校
これには、太平洋戦争でこの一帯が焼野が原となった後、日本に進駐してきた連合国軍が小型軍用機を発着させるための飛行場を建設したことと大きな関わりがある。すなわち、昭和二十七年(1952)六月に接収解除されたさい、市中緑地帯の不足は掘割の埋め立ての進行に伴い目を覆うばかりの状態であったためと市街地区画整理が進行中であったことによる。旧土地所有者の土地提供という献身的協力を得て公園が創設され、現在は四十年の歴史をもつ森林的環境が熟成され、都心のオアシスとして市民に親しまれている。
 また、将来は国際競技がメインコロシアムで可能になるように十六面の練習コートを有するテニス施設がなにわ筋より西の西園に現在建設されつつあり、同様に地下には大駐車場が完備されつつある。
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