わがまち百科

東淀川区の歴史

1/東淀川区のなりたち

東淀川区は、大正14年(1925年)4月の大阪市第2次市域拡張の際、それまでの西成郡中津・豊崎・西中島・神津の各町と大道・新庄・中島・北中島の各村が市域に編入され、誕生しました。 東淀川区という区名に決定するまでには、上淀区、中島区などの案がありました。

 その後、昭和18年(1943年)4月、当時の全市15区が22区に再編成された時に、第2次東淀川区が成立しましたが、 この時の区域は、それまで淀川左岸の飛地になっていた区域を大淀区として切り離し、鉄道区界に新たに加島・塚本地区を加えたもので、ほぼ淀川・神崎川・国鉄東海道線よって囲まれた地域でした。

さらに、昭和49年(1974年)7月22日、大阪市は26区制を実施しました。 これによって、従来の区域の東海道線を境に、東部と西部に区分され、東部を東淀川区、西部を淀川区として、第3次東淀川区が成立し、今日の区域が決定しました。
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2/縄文、弥生時代までは、葦の茂る島や浅州

今日の東淀川区一帯は縄文・弥生時代までは、いわゆる「難波八十島」と呼ばれる、葦の茂る多くの浅州や島があり、それらの島々をぬって淀川・中津川・三国川(神崎川) などの川筋が西に流れていました。今の南江口・大桐付近が淀川の河口でしたが、長い歳月のうちに、しばしば洪水が発生し、流れが変わり、しだいに河川の土砂が堆積されて、現在の地形になったものです。
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3/大隅宮、乳牛の牧、「式三番叟」の豊里

東淀川区の地域がはじめて文献の上に登場するのは、応神朝22年(291年)3月5日、「天皇幸難波、居於大隅宮、登高台而遠望 (すめたみこと なにわ みゆきし おおすみのみやにおいて たかきやに のぼりて えんぼうす)(「日本書紀」)という記事です。

 応神天皇は、大和高田郡の南部に宮処を定め、大隅島に離宮を設けて、朝鮮や中国との海上交易をおこなったといわれています。 その高台にある大隅宮から、それらの舟をのぞまれたという意味で、その離宮のある大隅島は、今日の江口、大桐付近という説もあります。

 次いで、「続日本記」には安閑朝2年(532年)9月13日、「勅して牛を難波大隅並びに媛島松原に放たしむ」と記されています。 この難波大隅と媛島松原は、元正天皇霊亀2年(716)に「大隅媛島の2牧を罷む」という記述が続日本紀にもありますが、平安朝に入っても、この付近では乳牛を放牧してその牛乳を朝廷に献上しており、 のちには「乳牛の牧」という荘園になりました。いまの大隅東、大隅西小学校(旧大隅小学校)は大正15年に改称する以前は乳牛の牧尋常小学校と称していました。
 旧村名の豊里、旧大字の三番・天王寺庄などは、いずれも四天王寺の伽藍創建時に候補地であったとの言い伝えによったものといわれています。 すなわち推古朝元年(593年)、聖徳太子が四天王寺建立の地を訪れたとき、この地の篁の竹で笛を作って「式三番叟」の舞楽を行わせたことから、三番の地名がおこったといわれています。
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4/京都に出入りする舟の河港として栄えた中世

現在の神崎川は、もと三国川と呼ばれ、淀川とは、源流を異にした川でした。しかし、淀川が長期にわたる流砂の堆積により河床が高くなったため船の運行が困難になりました。 そこで、延歴4年(785年)、いまの南江口から下新庄あたりまで、掘削して三国川に通じました。 その結果、西国との船の交通は、三国川が本流となり、江口、加島神崎などは、京都に出入りする船の河港として、にぎわいました。
仁安2年(1167年)、西行法師が天王寺へ参詣の途中、江口の里で遊女・江口の君と歌問答をして一夜を明かしたという平家物語中の有名なエピソードは、当時のこの地がたいへん栄えていたことを物語っています。


世の中を いとふまでこそ かたからめ 仮のやどりを おしむ君かな

西  行
世をいとふ 人としきけば 仮のやどに 心とむなと おもふばかりぞ

江口の君
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5/中世の荘園、そして戦場と化す

中世、当地には草刈庄・天王寺庄・乳牛牧庄・小松庄・淡路庄・豊崎庄・宮原北庄・宮原南庄・加島庄の荘園名が残っていますが、それらの地名の総称は「中島」と呼ばれていました。 それは、淀川、中津川、神崎川などによって囲まれた地域であったためです。

 鎌倉時代の末期から足利時代にはいると、この地は戦場と化しました。 楠木正成、正儀、細川、三好、松永、織田、足利義昭、荒木村重、石山本願寺門徒などが、江口、柴島、新庄、堀、三津屋など城砦をめぐって、争いが続きました。
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6/江戸時代には「百姓普請」の中島大水道開削

江戸時代には、淀川北岸一帯は水田の耕作が盛んになっていましたが、毎年繰りかえされる河川の氾濫のため、作物の被害が絶えず、農村は困窮していました。 そこで、農民たちは団結して水田の排水路として、中島大水道の開削を幕府に嘆願しました。

 しかし、幕府からの回答は、開削費用すべて農民負担の「百姓普請」でした。
そのため、公費費用を再度嘆願したところ、強いて請うときは開削許可を取り消すことをほのめかされました。
 そこで農民たちは延宝6年(1678年)3月、独自に開削工事に着手しました。新太郎松樋(淡路)から福村吐口樋(西淀川区西島)に至る約9,200mの中島大水道を、わずか50日間で完成しました (この水路は、戦後東海道新幹線工事で埋め立てられるまで存在していました)。
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7/鉄道が田園地帯を走りはじめた明治、大正時代

明治時代に入っても、河川の氾濫はしばしば発生しましたが、明治11年(1878年)の神崎川付替工事、同30年(1897年)から開始された淀川改修工事等によって、 ようやく農村生活も安定するようになりました。
 当時、「一望千里」の農村地帯であった当地の主産物は、米・麦・大豆・綿・藍などで、とくに綿は上新庄・小松・江口・大道の各地で盛んでした。 外国綿花が輸入されるようになって、衰退した後は、そ菜類の栽培が盛んになりました。

 明治9年(1876年)、大阪−京都間に官設鉄道が開通、同22年(1889年)には大阪市制が施行(4区制)されました。大正3年(1914年)に柴島水源地が完成。 同10年(1921年)に、北大阪鉄道(現 阪急電鉄)が十三−淡路間に、同13年(1924年)淡路−新庄間に、同14年(1925年)には、淡路−天六間にそれぞれ開通し、田園地帯にも近代的な鉄道の時代が到来しました。
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8/大正14年、東淀川区が誕生。昭和は発展・戦災・復興・市街地改造事業

大阪市は明治30年(1897年)の第1次市域拡張につづいて、大正14年(1925年)4月、第2次市域拡張(13区制)を実施。 このときは淀川北岸の広大な農村地帯は、西淀川区、東淀川区として、大阪市域に編入されました。そのうち東淀川区は西成郡中津・豊崎・神津・西中島・北中島・新庄・大道・中島の8ヶ町村で面積は29.03kuでした。
 昭和に入ると、区内は、住宅・工場・商店街が急増し、人口は大正14年(1925年)の約14万6000人から昭和10年22万7000人、15年には26万8000人となりました。

 昭和16年(1941年)12月に太平洋戦争が勃発しました。そして、1年半後の昭和18年(1943年)4月、行政区画編成により、淀川南部の一部、中津・豊崎を分離し、 面積25.93kuの第2次東淀川区が誕生しました。太平洋戦争は日ごとに激化、昭和20年(1945年)には、東淡路・西淡路・淡路・啓発の各地域が空襲で被災しましたが、戦後いち早く復興しました。

 その後、昭和30年代から40年代にかけて高度経済成長が進行し、自動車・住宅・電化ブームが高揚するなかで、下新庄・豊里・豊里西の3地区で、 住宅造成を目的とする区画整理が実施されました。また、新庄大和川線・歌島豊里線の幹線道路築造のほか、豊里大橋・長柄バイパスが完成。 さらに国鉄(JR)新幹線工事、新大阪駅周辺都市改造事業が実施されて、東淀川区は市内北部の新しい市街地として生まれ変わりました。
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9/昭和49年、現在の東淀川区が誕生

昭和49年(1974年)7月22日、大阪市は26区制を実施。これによって、これまでの東淀川区は、旧国鉄東海道線を境に東部と西部に区分され、 東部を東淀川区、西部を淀川区として、第3次東淀川区が誕生し、今日の、区域が決定。新しい住宅区として、ここにスタートしました。

 発足当時の当区は、面積13.15ku、世帯数5万8319世帯、常住人口16万2242人でした。

 昭和49年以降の東淀川区の人口および世帯数の推移(国勢調査)を見ると、1980年16万5370人、5万9560世帯、1985年 17万831人、6万5109世帯、1990年 18万815人、7万6274世帯、1995年 18万5931人、8万4742世帯、2000年では、18万2888人、8万8357世帯となっています。

 各区の人口を比較すると当区は(平成12年国勢調査速報)で、平野区(20万)に次いで市内では2番目に人口の多い区になっており、世帯数では市内で1番多い区となっています。
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