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50.中国大阪総領事館
中国総領事館の威容

伝統を今に生かした市街地に日中友好の砦


中国大阪総領事館が靭本町三丁目に豊中市の千里から移ってきたのは一九八五年(昭和60)のことである。
もともと当区本田地域(現川口地域の一部)と中国とは明治初頭からの川口居留地貿易を通じて深いつながりがあったが、戦争によってその関係が破れてしまった。しかし、大阪では太平洋戦争後、いち早く昭和三十年十一月末に中国見本市が開催された後、いくばくかの曲折をへて昭和三十七年十一月に準政府間協定により政治信条に関わりのない民間貿易が開始された。廖承志中日友好協会長と高碕達之助による協定いわゆるLT貿易である。
 昭和四十七年九月二十九日に正式に国交の回復がなされ、同四十九年一月五日に日中貿易協定が調印され、四月十八日には上海との間に友好都市宣言が取り交わされた。さらに同五十三年八月に日中平和友好条約が締結されたのを契機として大阪にも中国領事館が豊中市の千里に設けられた。
 しかし、往時からの大阪の対中国関係にかんがみ市中の川口・本田地域に隣接した地域に総領事館が所在するすることが双方の念願であった。こうして市有地であった現在地が中国側に譲渡され、総領事館が移転してきた。
 明治の文明開化期以来、本田町を中心に中国(当時は清国)華商が漸次その地歩を固め、大阪における綿糸布・雑貨貿易の扱いは華商の手を借りることが多かった。北幇公所・南幇公所による商圏の充実の伝統は、時代が進む中で領事館に受け継がれ、区内唯一の外国公館として機能している。
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